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 先日ラジオを聴いていたら、ある番組DJが7月7日の七夕を「信じない」と言われていました。理由は、彦星の本名は「アルタイル」織姫の本名は「ベガ」で、我々の知ってい名前は偽名であるからとの事でした。星に名前を付けたのは、たまたまそれを発見した地球という星のどこかの国に住む人間です。しかしもしかしたら、それより先に他の惑星に住む人間以外のお方が名前を付けていたかもしれません。となると何が本当で何が嘘か分からなくなります。七高僧の第一祖である龍樹菩薩は「言葉は虚論、虚構」と言われました。つまり一切が空である平等の世界を、人間が言葉や名前によって分別し差別し、我々はその中で迷ってのだと言われます。

 そもそも七夕を”信じる”という言葉だってとてもあいまいなものです。「信じる」。とてもいい言葉に聞こえますが、実はそこには必ず「疑いの心」が混じっています。よくよく考えてみると、自分の目で見てしっかりと確信がある場合は「信じる」という言葉は使いません。例えば、今日はとても暑く庫裏の部屋の室温計が30度ありました。それを見ながら「今30度あると”信じる”」とは言いません。我々が”信じる”を使う場合は、不明確なことや疑いがある場合に使うのです。「明日晴れることを信じる」「あなたの潔白を信じる」といった場合でしょうか。「仏様を信じる」、「神様を信じる」信仰を持つ人なら誰でも一度は言った事があるでしょう。ところが、真面目に自分の心の底を見た時、そこに疑いの心や、どこか自信のない部分がないでしょうか?自分で自分の心に嘘や取り繕いがないでしょうか?実は私にはあるのです。どこか不安な所が。

 そんな中、一般的に信仰の要とされる「信じる」を救いの条件とされない仏様がおられるのです。私の「信じる」に対し、見返りとして仏様の「救い」を求めるといった取引きの信仰ではなく、仏様から一方的に信じられ、呼び続けられ、仏様と共に進む仏道があるのです。

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