【彦根】【松原寺】仏教婦人会『聞法の集い』をお勤めしました

中学の同級生であり、また彦根市本町の和光寺の住職、仏光寺派の布教師でもある菅原良暢師を講師に招いて法座を勤めました。

お忙しい中、準備等して下さった、婦人会の当番の方に感謝いたします。

それにしても、全員マスクの正信偈は一向に慣れません。そう言わずに慣れる、受け入れる努力も必要かもしれません。コロナはピタッと終わるものでは無いようですから。

さて、菅原師の法話約40分はとても勉強になりました。同級生といっても、彼の方が、僧侶としては大先輩です。これからもたくさん勉強させて頂きます。

法話の内容は、

浄土和讃 『無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり』

を講題にされたお話しでした。 ※聴聞した私の味わいを最後に書きたいと思います。是非読んでくださいね。

参加者の気持ちをつかみながら大変スムーズで分かりやすいお話でした。さすが、忙しく各地の法座で布教をされていることだけありました。

法座終了後は、近所の同い年の僧侶同士が、『仏教の明日について』激論しました。なんちゃって。

 私の味わい

 如来の働きは、私が起きている時も、寝ている時も常に私に働き続けてくださいます。ところが、大半それに気付きません。特に調子がいい時、一生懸命な時ほど気付きにくいものです。また気付かないどころか、他人の荒や、些細な事が気になります。反対に、不安になった時や 弱った時に、如来の働きに気付く場合があります。それは、大切なものが見えたり、自分の愚かさに気付かせてもらうという意味です。
 菅原良暢師のお話の中で、安田理深先生の「不安が如来」という言葉を用いられました。不安がなければ、欲のままにひたすら走り続けていた。不安と出会った事で、ブレーキがかかり、周りや、自分の内を見ることができた。不安がなければ先に亡くなった父や母の事も忘れたままだった。そのように考えてみると、不安そのものも、私にとっては阿弥陀如来の働きであると言えるでしょう。 

 私の無明の闇を照らして下さった『不安』も、それと共に、そして不安のままで、手を合わせ、有難くお念仏申したいと思います。 合掌。

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