前々坊守23回忌法要
先日、22年前に往生したおばあちゃんの法事を勤めました。おばあちゃんとの一番の思い出は、私が19の時、車の免許を取ってすぐ助手席におばあちゃんを乗せてドライブに出かけた事です。近所を少し走っただけですが、私がした数少ないおばあちゃん孝行の中の一つです。免許取りたてのおぼつかない運転を大変喜んでくれました。そんなおばあちゃんの写真を前にして「またいつか私もこのおばあちゃんと再会する時が来るんか、死ぬのは怖いけどおばあちゃんも通った道や、受け入れるしかないな。」阿弥陀経の「倶会一処」の部分をこう味わいながらお経をとなえました。
「倶会一処」とは、お念仏(信心)を頂いた者は必ずお浄土に生まれて仏や菩薩方と会い、そして自分もまた覚りをひらいて仏となるという阿弥陀経に説かれる言葉です。お通夜や法事の席での法話でよく話されますし、墓石にも刻まれる言葉としても使われるので、ご存知の方も多いと思います。
ところが、我々が思い描く「倶会一処」の世界はあまりにも狭く且つ自己中心的です。先に亡くなった大切な家族にまた会える。懐かしい人との再会。間違いではないのですが、お浄土は私の都合や想像をはるかに超えた世界です。
「真実の報土とは、 平等覚経には 「限りない光明の世界」 と説かれ、 また 如来会には 「あらゆる智慧をそなえた世界」 と説かれている。 浄土論には 「はかり知れないことは虚空のようであり、 広大であってきわまりがない」 教行信証 真仏土巻
自分の好きだった人も嫌いだった人も、知った人も知らない人も、共に生まれていく世界がお浄土です。善悪、好き嫌い、自分他人などの線引きなどもちろんありません。お浄土とは、自分の家や墓の延長ではないのです。私はまだ行った事はありませんが、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんにはもちろん会えるでしょう。また、あんな人やこんな人、まさかのアノ人なんかにも会えるかもしれません。
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